『 QNに『問い』をカツアゲされる日々からの学び 』

 〜生命の価値=思考〜 

 最近、ある活動の中で「俺に問いを投げかけてくれ」と、問いを要求される。問いを立てるのが不得手な僕にとって、問いを捻出する事は苦行だ。そんな事はお構い無しに問うてくる…   

「これって、問いのカツアゲですやん…」(某芸人風) 

苦労の末、問いを捻出する中で脳内の耕作放棄地が問いの畑に再び開拓されている事に気付いた。すかさず、問いのタネをまいた。だが、僕が10数年前に捨てた問いの畑には、なかなか問いが育たない。困った僕は言語化に優れたQNに肥料という名の言語化のヒントを加えてもらいながら、問いを育てた。10限目ほどたったころ、畑に問いの芽が芽吹いた。ここまでが播種から萌芽までだ。収穫までの取説には、「自分で栽培方法を思索してください。他から指南された栽培方法では、問いは育ちません。」とある。さあ、手探りで問いを育てて行こう。

 今回、36時間のワークショップを開催してもらったのは良質な問いを育てるためで、問いを育てる理由としては、物事の本質を見抜くためだ。問いのクオリティーによって本質の解像度が変わってくる。深層までディグった問いは解が鮮明に見えて、本質がつきやすくなる。表層をなぞった問いは解にモザイクがかかり本質を突きにくくなる。「問い→解(本質)」へのプロセスで一番重要なのが思考だ。

そんな中、インターネットの発達により、「問い→解」へのプロセスで生まれる思考が簡略化され、思考が(ネット=実体のない点の集合体)に葬られる。自ら導き出した解ではなく、他人が作り出した解を選ぶ。それでは他人の思考で人生を歩んでいることになる。これは社会にも当てはまるのではないだろうか。
寄らば大樹の陰のごとく既存の体制にすがりつき、少し考えれば理解できることであっても理解できないふりをして、自己暗示により他人の思考・振る舞いを肉体に収める。自己の魂、肉体を他人に預ける行為は生命の奴隷契約なのではないだろうか?

 例えば、死刑囚は独房の中で生きる価値を見出さないために、何もさせない。思考を停止させるのだ。独房の中で耐え難い事の一つに「思考できない環境」が入っているように、思考こそが人生の楽しみであり、「生命の価値=思考」なのかもしれない。

 36時間、コミック「イキガミ」より生命の価値を何度も問いかけ、問われ、新たな領域が開拓された。今後、問いのカツアゲより気づいた事から自己の存在に責任が持てるように自問自答を繰り返して、己が何者かを示して行こうと思う。

 

P.S:QN36時間のワークショップ設計ありがとうございやした。